| 1. はじめに 障子についての谷崎潤一郎の「陰影礼賛」 |
小説家谷崎潤一郎の作品に「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」という随筆があります。その中で、谷崎は日本の家屋の薄暗さにこそ美があると言っています。
『もし日本の座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数奇を凝らした日本の座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰影の秘密を理解し、光と蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。
なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以って一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧たる隈を生むようにする。にも拘わらず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活けの周囲や、違い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それがなんでもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけが、シーンと沈みきっているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘をうける。
(中略)
分けても私は、書院の障子のしろゞろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにあゝ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射してくる外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。
私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩さの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁(たてしげ)の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜ったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝(あや)しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばゝく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋のたゞようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重ゝしいもののような気持ちがしたことはないであろうか。』
と述べています。この作品が書かれたのは昭和8年12月の事ですので、現在の私たちには、その陰翳の魅力が今ひとつしっくりとしないかも知れませんが、谷崎の言うように障子の魅力は少しも色あせる事はありません。
近年、障子はおろか和室すらも設けない住まいが多くなり、しかも、何もかもあけすけに照らし出す照明の下にあっては、谷崎の言う日本民家の薄暗さの美とそれにマッチする日本の家具や食器などが、到底しっくりと納まることはありますまい。
これは余談ですが、京都の舞妓さんの白塗りの顔なども、白日の下では、異様にさえ見えますが、日本の薄暗い家屋の中にあっては美しく映えるはずです。 私は舞妓さんと同席したことは20代にありましたが、薄暗い座敷にあってその姿は日本人形のように可憐でした。その部屋が随分暗いなあと当時は思ったものですが、谷崎潤一郎のこの文に触れてからは、その座敷がいかに舞妓さんを引き立てたり、日本家具を落ち着いたものみ見せる工夫を凝らしていたのだと思いに至り、自分の不覚を恥じたものでした。
| 谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう、Junichiro Tanizaki 1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家。耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称されました。「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」は昭和8年12月に発表されました。 |
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