| ■昼からも苦戦 しかし、私はこれまでの仕事で、電気を消して昼寝をするといった経験がありません。これまで出会った会社、人にもそういうことをするのを見たことがありません。薄暗くなった部屋の中のどこかしらからは、軽いイビキも聞こえてきます。私は、指示された仕上図のことと、慣れない仕事への不安から、少しも眠気が襲ってきません。私の眼だけが、パッチリと開いていることに自分でも滑稽な気がしました。こんなことで本当にこれから先、やっていけるのだろうか?という想いが湧いてきます。しかし、ここでやめたなら、私はもう行くところがありません。泣きながらでも頑張るしかないのです。その複雑な気持ちが、緊張感の上に乗っかって半日しかたっていないのに重い疲労感をに押し潰されそうになっていました。
昼休みは、現場内のチャイムで終わりを告げました。少しでも進めたい、そういう想いでいっぱいです。見本となる仕上図を見て、理解するのに四苦八苦です。躯体図の図面は大体これまでの経験でわかります。仕上図は経験がありません。見本の仕上図には壁に記号が振られていて、それが凡例として空いた図面の端に出ています。 「えーと、LGS65/2+pb12.5+9.0=54か?」 「LGSってなんだ?」 私は、小声でぶつぶつ言いながら理解に努めました。今のようにネットがあれば何も悩むことはありません。ネットで簡単に調べられるからです。しかし、インターネットなどという存在が影すらもないような時代です。いろいろ考えても、最初から知らないのだから、もう聞くしかありません。主任のところに行って、聞いてみました。なんだそんなことも知らないのか!といわれるかも知れないとヒヤヒヤして。 「あ、それか。それは、ライトゲージっていう間仕切りの間柱のことだ。ここに、メーカーのパンフレットがあるから、見たらいい。大体LGS50、65、100くらいがよく使うかな。」 解らないことは、抱えこまずに聞くことです。仕事がはかどります。知識も早く得られます。
こうして、記号を理解して、仕上図を書きだしました。が、すぐに手が止まってしまいました。よく考えると、コンクリートの壁があってそこにもボードを貼る、そのボードがLGSの壁とつながっているのです。まず、コンクリート面の仕上げがどんなものかがわかりません。 「GL工法って、何だろう」 少しも進まないまま、三時の休憩が始まって終わりました。私はその時間もあれこれ調べて、とうとうこれについても、主任に聞きに行きました。 「GL工法か、ボンドの団子に石膏ボードを貼る工法だ。まあ、図面はコンクリートの面から30oが仕上げとして書いておいてくれたらいい」 「はあ、解りました」 と答えましたが、よくわかりません。だからといって、部屋の誰かに聞くのも気が引けます。なぜなら、施工図の部屋の中では、私が一番の年長者なのです。逆に聞かれてもいいくらいの年なのです。ともかく躯体図を先に書きました
■間違えてばっかり が、見様見真似です。仕上げ図の横に仕上げ表も書きます。現場の監督員はその仕上図を見ながら職人に指示を出したり、墨を打ったりします。間違っていたらえらいことです。その点、私の現場の主任が、私の書いた図面をチェックしてくれます。そして、そのチェック図を見て直して、またチェックしてもらう。主任の上司は、工事長です。そこでも最終はチェックされます。ですから、私の間違えが現場に伝わってしまうということはありません。それだけでもほっと出来ました。
それにしても、よく間違いをしました。ちょっとした計算間違いとか、図面の見違い、安易な想いでの勘違いなどです。自分ながら情けなくなることが何度もありました。張り切って書いた仕上げ図画がいくつもの分割した図面にワンスパンずれて描いていたなど、今ならCADで速攻で修正できますが、当時は図面はすべて手書きです。書き直すしかありません。時間がせかれているのに書き直すとなると、現場に泊まり込んでやるしかありません。そういうことを何度もやりました。たとえ家に帰ったところで、寝に帰るだけのことですから。
こういう、ことを繰り返しながら、自分が一向に成長しません。自分はこの仕事に向いていないのではないか?そういう疑問が出てきます。そういう時に、皮肉交じりに主任が、こんなことをいうことがあった時は、涙が出そうになりました。いい年をして、こんなことも自分はわからない。しかも、その主任は、私よりずっと若いのです。 「君、この仕事向いてないのと違うか?」 「え、そうでしょうか」 「間違いが多すぎる。そのたびに図面を書き直してたら、この世界ではやっていけないよ。もっと、よく見てよく考えて書いてくれ」 「はい、、、」 そうして、チェック図面を返してもらうのです。そこには、数字がいっぱい赤字で直されています。文字板を使って書いているのですが、書いているうちに数字が解らなくなったり、どうしてこの数字を出したのだろうなどと、およそ笑い話のようなこともありました。それは、結局、頭の中で下地から仕上がりまでの順序や施工方法、材料が頭の中でまるで連結していないのです。ただ、仕上げ表に書いてあるだけのことで書いているにすぎません。それでも、恥を書きながら、いろいろなことを一からやるしかありませんでした。
■難しいことは聞かないで 私が、一番つらかったのは私くらいの歳、三十過ぎの男が現場にいれば、それは相当経験を積んでいる筈だと思われることでした。施工図室にいる若い男たちも、私に教えてほしいと聞きに来ることもありました。私は、その時もう自棄(やけ)で、 「ぼくには、解らないです」といったものです。 「またー。そんなこと言わないでおしえてくださいよー」 「いや、本当にわからない」 で通しました。いずれわかることですから。本当のことを言ったのですが、そうは思ってくれなかったようです。それは本当につらいことでした。解からない私が、逆に彼らには聞けなかったからです。本当は、私にとって現場に出て、一二年の彼らの方が先輩でした。けれども、捨てきれないプライドがあって、彼らに教えを乞うことは結局ありませんでした。
彼らは、施工図専門の会社からの派遣で来ていました。仲間は四五人います。冗談も言い合いえます。時間が来れば、さっさと帰っていきます。私も同じように派遣の身でしたが、一刻も早く高額の給料をもらえるようになり、独立しなくてはいけません。そうでなかったら、殆どトントンか持ち出しになっている安給料の地獄から抜け出せません。主任以外に教えてもらう人もなく、相談する仲間もいません。わたしは、たった一人施工図しつでは浮いた存在でした。
派遣といえば私もそうです。しかし、私は独立を目指しています。同じ派遣でも、そういうことを考えていない、彼らとは立場が違う。最初から独立など実力もないし、どんな人のつながり持たってはいません。だからこそ、この施工図専門の会社に入りました。そこから、何とかなるだろう。そんな気持ちでした。入ったは良いが、「叱られてばかり」。そんな私が、この先、どうして独立まで持っていけるだろうか、、、(しかし、私は独立出来ました。その話は今少し後です)
ともかく、実力をつける以外にありません。実力さえあれば大抵の建設会社で働けるはずです。一匹オオカミとしてやっていけます。現実は、それなのに、間違いだらけの施工図を書いて、苦情を言われている訳です。私は、解らないところは、いろんな人に教えてもらおうとしましたが、自分のプライドをズタズタにするのは、辛すぎなかなかできません。それゆえ、施工図の本や収まりの本などもたくさん買いました。それをこっそり隠れてみながら、知ったかぶりをしているしかありません。主任やその上の工事長には、「自分には、なんの実力もないので教えてほしい」と告白していましたの、嫌味を言われながらも教えてくれました。それらをノートに後からとったりしました。
■僕には聞かないで! 私が描いた図面は、私の主任や工事長の受け持ちの部分だけで、他の人から図面の指図が入ることはありませんでした。それは、自分の恥を人に広めないことには役立ちました。しかし、職人が図面を焼いてくれとか、設備の担当者などが 「ここはどうしてこうなったんだ?ここは、耐火区画になっているのか?」 とか聞かれるのです。そういう時には、自然と私の無知がばれるしかありません。 「そうです。」と答えてから、 『たぶん』と自分に言い聞かせるように言ったものです。 「たぶんって、自分がこの図面描いたんだろ?君、解らんと描いているのかー?」 大きな声でいいます。部屋中の人間が振り向くようなこえです。大体、建築の現場に出ている人は、声が大きい。大きくならざるを得ません。職人に蚊の鳴くような声で指示しても、『ふん』と聞いてくれません。どうしても大声で、きつい目の言い方になるのです。本人は少しもそんな気はないのですが。
「ちょっと主任に聞いてきます」 「いいよ、いないからここに来たんだから」 もう、設備の人にも信用がありません。 その他、同じように職人が図面をくれといってやってくることがありました。 同じようなことを聞きますが私は、答えることが出来ません。
「ここは、こう書けと言われて書いたので解からんわ」 職人は、それ以上は聞きません。助かったーと思います。しかし、それでは私の実力は少しおついていきません。仕方がないので、 打合せから戻った主任に聞いて、設備担当者に報告に行きます。また、そこで質問されて、またきいて報告です。最後には、設備担当者も気の毒に思ったのか。 「わかった。もういいよ」 といってくれたりしました。最初から、私に聞かないでといつも祈るような、ヒヤヒヤのような落ち着かない毎日が続いていきます。出るのは、疲れた気持ちと、先が見えない自分の将来への不安の ため息が出るばかりです。ともかく、必死に施工図のことを、おさまりを知ろうと必死でした。
■同業の施工図のおっさんに叱られる。 こういう、逃げばかりの対応に、同じ施工図室にいる同業のおっさんが、私を見かねて注意してきました。それは、今から考えてもっともな指摘であり、私が逆の立場であっても同じことをしただろうと今は思えます。 「君ね、職人や設備の人にああいういい加減なことではあかん。もっとちゃんとせんかい。逃げ腰ではあかん」 「ほっといてくれ。解らんものは解からんで何がおかしい?」 「こうかけといわれたから描いたなんぞ、施工図屋の恥だわ」 私は、大勢の人のいる中で公然と批判されたことに、頭に血が上っていました。 「うるさいわ」 と突っぱねてしまいました。 おっさんは、それ以上は言いませんでした。しかし、室内にいた者はどちらがもっともな言い分か、分かってたでしょう。痩せてヒョロとした中背の私の父親くらいの歳に見えました。彼は、ブロック割をしていました。私はその時初めて、ブロック割なるものがあることを知りました。その割り方も知りたかったのですが、彼とはその後口も利くことがありませんでした。オッサンは、ブロック割が一段落して、自宅の近くの現場に移って行ったからです。 狭い世間を更に狭くしてしまいました。素直に認めて自分のいい話相手になり、施工図のことを教えて貰えば、その分早く知識を習得出来た筈です。しかし、生まれつき頑(かたく)ななわたしは、それが出来なかったのです。分かっていても出来ないのです。施工図室で、こういうやり取りが、 その室のみんなに知れ渡ったのですから、私の存在は更に孤独になるだけでした。
■夜は飲み会 通勤に時間がかかることは分かっていましたが、仕事が終わる7時過ぎに飲みに誘われれば喜んで参加しました。いろんな人と顔見知りになったり、主任や工事長とも意思の疎通が広がることも期待できます。それに、独り者ですから、混んだ電車で早く帰ったところで詰まりません。飲むのは大抵主任と工事長と現場に出っぱなしの他社の建設会社の工事主任でした。皆、最初からグイグイ飲みます。実は六時が過ぎると、どの部署でも一斉に酒類を飲み始めます。 これまで、建築の畑を歩いてきましたが、そうした経験はまったくありませんでした。これには、ビックリしました。広い事務所のあちこちからスルメの匂いや、他のツマミのなんとも言えない匂いが混じっています 「現場事務所で飲むのか?」と見ていると、主任が、ビールを差し出して、 「さっと片付けたら飲みにいこか?」 と言います。 「へいへい。でも金はありません」 「そんなものいらん」 それで、出かけるのです。その頃には、結構出来上がっていて、店に張った頃には、仕事の話で盛り上がってしまいますが。わたしだけ、ただ、ニコニコして飲み食いしていました。一言も喋りません。話すことがないからです。 仕事が終わったら、現場から一刻も早く離れて、ゆっくり飲みたい人もいましたが、私達が飲むのは現場の目の前の飲み屋で、これが結構あり、そのどの店でも同じ建築現場の人間で埋め尽くされていました。あちこちで、言い合いも始まります。飲み屋といっても、大衆居酒屋です。そこに、柄が良いとは言えない土木建築の人間がいますから、日頃の憂さがでてしまいます。まあ、それでも一流建設会社ですから、節度はありました。 殆ど、最終に近い電車で酔って帰ったものでした。おそらく、赤い顔をして酒臭い息を掃いた中年のオッサンは、周囲から嫌な目で見られていたでしょう。電車を一つ乗り継いで、降りればそこからは、歩いて帰れるので、酔い覚ましにはなりました。 帰り着いた時には、まるでタコのように体がなって、そのまま服を脱ぎ捨てて布団に入り込んで寝てしまいます。 こんな日々が、半年は続きました。何とか半年が務まったわけです。
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