| DRA−CADは当時35万円でパソコンはDOS時代が始まったばかりでした。ソフトも5インチのフロピーディスクを差込みながらの使用で、なかなかスピードアップしませんでした。しかし、私自身CADについては駆け出しでしたし、私の勤める設計事務所はCADには殆ど興味を示さず、もっぱら自宅に帰ってから練習として使っていましたので、ソフトの遅さは全く問題となりませんでした。
DRA−CADはアイコンが美しく、カッコよかったのですが、作図を便利に進めるためには、フリーや有料ののコマンドソフトも利用する必要がありました。そのたびに継ぎ足して買うコマンドなど新たな費用が発生するのでした。
買い足さねばならない原因は、DRA−CADのコマンド群にありました。一つのコマンド(アイコンをクリックして図形を描く命令を実行する機能)では、一つの作業しか出来ないからです。
これはCADをやったことのある人は理解してもらえると思うのですが、一つのコマンドから複数のコマンドに簡単に切り替えができません。幾つもコマンドのアイコン画面を、ペラペラめくらねばなりません。これが大変煩わしいのです。
例えば図形を動かす場合動かすコマンドはその機能しかないのです。同じアイコンで図形をコピーする、コピーしながら回転させるなどのオプションがあれば便利なのですがそういうのがないのです。貧乏な私は金にもならないのに、出費ばかりがかさんでいました。
| | パンフレットの一部 パンフレットを見ただけで欲しくなる。 | DRA−CAD(DOS版)のアイコン |
どうにかならないものか?また私は行き詰ってしまったのでした。
そんな時、その事務所で見かけた「建築知識」という雑誌にまだ出来立てのほやほやのJW−CAD(もちろんMSDOS版)が連載され出しました。この記事は大反響を得ていました。
その頃はインターネットはまだなく、パソコン通信が最盛期の頃でした。インターネットは接続業者を介して、あらゆるホームページに繋がっていますが、パソコン通信は一つの業者に会社員のように会員として特定の人が会員として繋がった閉鎖的なコミニケーションの方法です。
パソコン通信の最大手が「ニフティーサーブ」というところで、この会社は、JW−CADのすばらしさをよく認識していました。そして、そこにJW−CAD専用の掲示板を設けたのでした。
JW−CADの作者とそれを見出した人には、パソコン通信というコミニケーションの将来性も十分に気がついていたのでしょう。すごい先見の明があったというほかありません。JW−CADは週に二度も三度もバージョンUPをしていました。改良を重ね続けるJW-CADは、建築の設計業界の注目を浴びることとなります。建築知識も連載を続けていました。
JW−CADの作者たちは、連日の「こういう風にして欲しい」「こういうコマンドが欲しい」など、要望を真摯に受け止め、改良に改良を重ねる努力を怠りませんでした。 私も、要望を掲示板に出したことがあります。ちゃんと回答を得ることができました。もちろん私もパソコン通信「ニフティーサーブ」に入っていました。その中での回答でしたが私にもくれたのです。
このように、改善や要望の嵐とも言うべき中でCADソフトの改良の努力を重ねられたことはかつて誰もなしえず、誰も考えもしなかった画期的なことでした。週に二度三度とバージョンパップの改良版がなされ続けました。
そこまで改良が重ねられて、JW−CADが使いやすくならないはずがありません。あの頃の、JW−CADの作者たちも若く、発想も生き生きとして、どんどん改良を重ねていきました。
私は、いつしかJW−CADを使いはじめ、それに吸い寄せられるように傾倒していきました。大枚をはたいたDORA−CADはその後私の机の中に眠ることとなったのです。
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