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1. はじめに「畳について」

2. 畳の歴史

3. 畳の原料「イグサとは」

4. 畳の構造「畳床」とは

5. 畳の構造「畳表」とは

6 畳の構造「畳縁」とは

7. 畳を織る「経糸」とは

8. 畳の分類

9. 畳の寸法

10. 畳の敷き方 1

11. 畳の敷き方 2

12. 茶室と四条半敷き

13. 畳の日常の手入れ

14 汚した時の応急処
  

15. 畳の交換と価格

16. 畳の上の正座
 (しびれない正座の
  方法)

      
 2. 畳の歴史

  畳は日本の気候風土に合った、日本独自の優れた床材です。外国から伝わった物のように思われがちですが、日本固有の敷物です。その歴史は奈良時代(710年〜784年)にまで遡ります。

 現存する畳しては最も古いもので奈良時代中期過ぎの奈良東大寺の正倉院にある聖武天皇が使用したとされる「御床畳」(ゴショウノタタミ)という、木製の台の上に置かれ、寝台として使われたものです(右の画像)。

これは現在の畳と同じように真薦(マコモ)を編んだ筵(ムシロ)のようなものを5〜6枚重ねて床として、表にイ草の菰(コモ)をかぶせて錦の縁をつけたものです。

               

 真菰(まこも)は、一見すると穂が出る前のすすきのような姿をしています。今日まで真菰が神聖視されてきたことは、全国の多くの神社の御神体として使われてきたという歴史を見れば納得できます。


 奈良時代より以前の縄文時代と、奈良時代の後期・平安時代から今日までのの畳の歴史をざっと見てみましょう。





 ■ 縄文・弥生時代(約1400年前)

縄文時代の遺構から、筵(むしろ)らしきものが発見されています。これが畳の原型となった可能性があります。畳の前身は筵だからです。





 ■ 奈良時代(710年〜784年)

古事記の記載の神武天皇の歌に
「 葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し  」

とあります。新婚の神武天皇が、伊須気余理比売の家は狭井河のほとりにあって、一泊した時のものです。


また、同じ古事記の中で景行天皇の歌に
「 海に入りたまはむとする時に 菅畳八重 皮畳八重きぬ畳八重を波の上に敷きてその上に下りましき

の中にも菅畳がみえます。

 菅畳(すがだたみ)とは、植物の菅(すげ)で編んだ、筵(むしろ)のような敷物のことです。菅(すげ)は現在の畳に使われている藺草(いぐさ)によく似た形状をしています(左の画像)。菅の傘でも有名ですね。

現在でも、妙高高原で有名な新潟県の妙高市の一部では栽培され、しめ縄や干支の置物の土産物として利用されています。菅で有名な製品では、「菅の笠」でしょうか。ちなみに菅の種類はなんと210種類と多いのが特長で、このうち利用されたのはショウジョウスゲであったと思われます。


 日本書紀や万葉集にも寝床の記述は多く見受けられます。木綿を重ねた「木綿畳」、幾重にも材料となる草を重ねた「八重畳」、葦に似た薦(こも)で編んだ「畳薦(こも)」といった文字が見受けられます。この頃には、畳の材料が定まったものではなかった様子が伺えます。藺草(いぐさ)と菅(すげ)とは一見して、同族のように見えますが全く違った種類です。





 ■ 平安時代

 貴族の邸宅が寝殿造 (しんでんづくり)の建築様式となると、板敷の間に座具や寝具などとして畳が所々に置かれるようになりました。

 今でいえば、フローリングの上に部分的に畳を敷くというイメージで使われ、全面に敷き詰めるという使い方ではありませんでした。

 当時は天皇、貴族の屋敷にしか使われておらず、縁の柄や畳の大きさなどで、身分の階級を表す役目を果していました。
 この置き畳として使われている様子は絵巻物等に描かれていたり、京都御所の清涼殿に、寝殿造の板敷で部分的に畳を使う形式が残っています。

ひな人形のお内裏(だいり)さまとお姫様が並んで座られているのは、畳です。




 ■ 鎌倉時代

 鎌倉時代に入ると寝殿造りでは、小さ部屋では畳床一面に敷き詰められるようになりましたが、大きい部屋では平安時代と同様に部分的に利用されるにとどまりました。畳を作る専門の職人も現れ「畳差」「畳刺し」(両方共たたみさしと呼びます)と呼ばれていました。




 ■ 室町時代

 室町時代になって畳が部屋全体に敷きつめられるようになり、この頃の畳職人は「畳大工」と呼ばれていました。このころから、板敷きから畳敷きへと転換が始まり、同時に日本人の正座も始まったとされています。畳と正座の歴史を見れば二つは日本特有の文化であるといえます。




 ■ 安土桃山時代

 安土桃山時代から江戸時代に掛けて、建物も茶道とともに書院造りが発展し、数寄屋建築が発展しました。書院造りは日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式です。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称です。


 書院造りはその後の日本の一般住宅に強い影響を与えました。数寄屋風建築は茶道を取り入れた作りの建物のことで、作りを簡素であることを旨としました。
 畳は、茶道の隆盛によって少しずつに一般人にも広がり始めました。

 この頃に福岡県筑後地方でようやく藺草(いぐさ)の生産が始まったようです。在でも福岡県は日本国内の藺草の産地としては熊本県に次ぐ生産量があります。




 ■ 江戸時代

 畳が一般のものとなったのは、江戸中期以降のことであり、農村においてはさらに遅く明治時代になってからでした。




 ■ 明治時代〜昭和時代

 畳が農村にまで浸透したのは、明治時代になってからの話で、長い歴史の割には、庶民的な敷物となるには時間を要したものです。現在では、全く和室を設けない住宅を作る人も珍しくなくなりました。そういう家を設計する時、建築主は日本の人ではないことが多かったのですが、今では日本人であることも少なくありません。



画像出典:菅(すげ) 三河植物観察のホームページを参照にさせていただきました。






          

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