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 W-Wallet 障子(しょうじ)


1. はじめに-障子に
  ついての谷崎潤一
  郎の「陰翳礼讃」

2. 障子の意味と歴史

3. 障子の持つ魅力

4. 障子の各部の名称

5. 障子の表裏とは

6. 障子の素材(木部)

7. 腰無し障子
  (こしなししょうじ)

8. 腰付き障子
  (こしつきしょうじ)

9. 猫間障子
  (こしつきしょうじ)

10. ガラス障子と雪
   見障子
  (ゆきみしょうじ)

11. 変り障子
  (かわりしょうじ)

12. 障子紙の種類

13. 障子の貼り方・
  はがし方

 2. 障子の意味とその歴史

 部屋と縁側との境に用いる格子に組んだ桟の外側に紙を貼(は)った引き違いの建具を障子といいます。これを一般的に「明かり障子」とよびます。昔のようにそれ自体が外部との仕切りではなく、現在では、もう少し範囲を広げて、外壁に設けたアルミサッシのすぐ内側に障子を設けたりします。


 障子は障子紙で光を濾(こ)して、和室に入る外の明るさをまろやかにし、ほっとする空間を作りだしています。


 障子自体は中国からの伝来です。もともとは、視界を遮るものの代名詞で、屏風や衝立(ついたて)などがそれでした。その後は、日本独自の発展をし、柱の間にはめ込み、やがてそれらを可動な建具とし、張り物を薄い紙にして、明かりを取るというふうに発展してきました。


 その経過を、もう少し詳しくみてみましょう。
 

賢聖障子(左の図)
(せいげんしょうじ)

現在の京都御所内の紫宸殿(ししんでん)の内裏(だいり)の賢聖(けんじょう)の障子とは、このようなものです。

つまり柱と柱の間にはめ込んだ目隠しのことです。
 
内裏とは天皇の私的空間のことです。絵の描かれた部分が障子で、この一箇所が少し開けることが出来、出入りが可能であったようです。幾度となく消失、再建を繰り返して、現在のものは近世に作られたものです。


 障子は、平安時代の初めには、人の動きや視線を遮るための目隠しの意味を持ったものでした。それは、例えば、平安京(京都市内)にあった内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)で使われた賢聖(けんじょう)障子」「衝立(ついたて)」「清涼殿(せいりょうでん)東廂(ひがしびさし)に置かれていた「昆明池(こんめいち)障子」などにみられます。これらは、いずれも年中行事の間仕切りとして用いられたものでした。


 平安時代の中ごろには、柱と柱の間にはめ込まれた障子に設けられた出入口についていた開き戸が引き戸に変わり、さらに引き違いに発展しました。この引き戸に変わった初期のものを「鳥居障子(とりいしょうじ)」と呼んでいます。


 なぜ「鳥居障子」と呼ぶのかについては、低い障子を開けてその下を鳥居のように潜るからであろうと、歴史学者の武者小路穣(みのる)氏は指摘しています。



 このころの障子は、木の桟を格子状に組んだものを骨として、その両面に何層もの紙の下貼りをした上に、布または紙で上貼りをし、周囲に漆塗りの框(かまち)をつけていた。布で上貼りしたものを衾(ふすま)障子、紙で上貼りしたものを唐紙(からかみ)障子とよんでいる。


 衾障子には絵が描かれるのが普通で、唐紙は裏または略式の場合に使われている。唐紙は本来中国からもたらされた紙のことで、色付や木版で文様を刷り出していたが、しだいに日本でも同じような紙がつくられるようになり、広く使われるようになった。開き戸が引き戸に変わった理由はわからないが、このころ初めて日本建築独特の引き戸あるいは引き違いの建具としての障子が生まれた。(出典:日本百科全書)



源氏物語絵巻の襖障子(平安時代中期)
   鎌倉時代に描かれた絵巻物では、縁を大きくとった襖(ふすま)障子が家の中の間仕切りに盛んに使われている。

格子に組んだ桟の外側に紙を貼った明(あかり)障子が絵画史料のなかで初めて認められるのは、平安時代末につくられた『平家納経』の見返しで、建物の外回りに引き違いの明障子に使われている。


 明障子が文献史料にみられるようになるのは、平安時代後半である。中世に入ると、明障子は舞良戸(まいらど)と組み合わされて外回りの建具として広く使われるようになり、とくに中世住宅を特徴づけるようになる。

 このころの明障子は通常、全面に荒く格子を組んだ、腰のない形式である。この時代の形式を伝える明障子は、元興寺極楽房禅堂、東福寺竜吟庵(あん)本堂などに現存する。


 当時の明障子には、縦框の見込みを溝いっぱいにとって、一筋の溝の中で引き違いにするものがみられる。中世には低い腰のついた腰障子、半分ほどの高さまで舞良戸形式の腰がある腰高障子、縦桟を細かくした虫籠(むしこ)障子など、各種の明障子がつくられた。(出典:日本百科全書)



 近世の初期に一筋の敷鴨居(かもい)と戸袋のある雨戸が用いられるようになると、雨戸と同様に同じ敷鴨居と戸袋を使って明障子を開けたてする替障子が住宅の外回りに使われるようになった。


 この形式の替障子は、二条城二の丸の大広間の南・西面、黒書院の南面などに使われていたが、現在は大きな戸袋が残っているだけで、明障子は柱間に立て込む形式に改造されてしまった。



舞良戸(まいらど)
(室町時代〜桃山時代)

 書院造りの建具の一。二本の縦框(たてかまち)の間に板を張り、その表側に舞良子(まいらこ)とよぶ桟(さん)を横に細かい間隔で入れた引き違い戸です。
 この形式の戸は、平安時代の巻物には既に描かれていますが、当時は槍戸(やりど)と呼ばれていました。蔀戸より時代は後で、戸の開き方が蔀戸が開き戸であるのに対し、引違になっています。舞良戸は図のように外部に使われていましたが、次第に内部の間仕切りにも応用されていきました。日本の引き違い戸の原型といえます。


 付書院(つけしょいん)の欄間(らんま)には桟を斜めに組んだ菱(ひし)格子が比較的多く用いられているが、江戸時代には数寄屋(すきや)風の意匠が発展するとともに、明障子の桟の組み方や意匠にさまざまな変化がみられるようになった。その代表例は京都島原の角屋(すみや)で、縦横の桟を吹寄せにしたもの、縦桟を波のように曲線に削り出したもの、縦横の桟をすべて斜めに配したもの、中にガラスをはめたものなど一部屋ごとに変化している。


 さらに幕末から明治にかけて桟にさまざまな具象的な模様を入れたものが現れ、雛形(ひながた)本も出版された。東京目黒の雅叙苑(がじょえん)には、その典型例が数多くみられる。

 また、襖障子、唐紙障子、明障子など各種の障子の名称は簡略化され、襖、唐紙、障子が基本になって、近年は障子が明障子だけを意味するようになっている。同時に住宅の洋風化に伴って障子が使われることが少なくなっているが、一方では数寄屋風の意匠や民芸調の意匠が料亭、飲食店、迎賓館などでもてはやされ、猫間(ねこま)障子、雪見障子などさまざまな意匠がくふうされている。(出典:日本百科全書)というのがざっとした歴史となります。



 上記の舞良戸と同様に奈良-平安時代に使われた戸に、蔀戸(しとみど)があります。最後に紹介しておきます。


蔀 戸(しとみど)
(奈良末期〜平安時代)

 板の両面に格子を組んだ戸のことで、風雨を遮るためものです。長押 (なげし) から内側または外側に水平に吊上げます。軒または天井から下げた金具に引っかけて留めます。写真のように上下2枚に分れ,上半分だけ上げるものを半蔀 (はじとみ) または、小蔀(こじとみ)といいます。
 普通の蔀が横長に用いられるのに対して縦長に立て並べて用いられるるものを縦蔀(たてじとみ)といいます。寝殿造,住宅風仏堂,神社の拝殿などに用いられています。


 なお書院造りというのは、室町末〜桃山時代に完成した武家住宅の形式で、今日の住宅の原型となったとされています。内部空間は,接客部分,家族の生活部分,台所など使用人の生活部分などに区分されるれています。



写真出典:
  蔀戸(ブログ松本市の最近の・・・
  舞良戸(伝匠舎)







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