| 畳のサイズは、畳が最初にありきで割り付けられる、「畳割(たたみわり)」りと最初に柱割りがありきで、ここに納まるように畳をつくるものが「柱割(はしらわり)」があります。 現在では、柱割が最初にあり、そこに納まるように畳を入れるのが一般的です。
日本の木造住宅は柱のサイズが105o角か120o角のいずれかで、柱割が910o前後でほぼ統一されていますので、自ずと畳の寸法は決まってしまいます。(表の下で説明します) したがって、市中の畳店で製作もしますが、建材メーカーも既成品として製造しています。メーカーは直販しませんので、市中の畳店が販売することになります。
畳のサイズ | 規格の種類 | サイズ ( )内は尺貫法 | 主に使われている地域 | 京間(きょうま) 本間(ほんま) 本間間(ほんけんま) | 955o×1910o (3尺1寸5分×6尺3寸)
| 京都を中心とする関西地域、中国、四国 | 中京間(ちゅきょうま) 三六間(さぶろくま) (これらは中間ともいいます。注参照) | 910o×1820o (3尺1寸×6尺)
| 名古屋を中心とする愛知、岐阜、福島、山形、岩手、北陸地方の一部、奄美大島 | 江戸間(えどま) 五八間(ごはちま) 関東間(かんとうま) | 880o×1760o (2尺9寸×5尺8寸)
| 関東、東北、北海道、東日本の大部分。全国的な標準規格 | 団地間(だんちま) 公団サイズ(こうだんさいず)五六間(ごろくま) | 850o×1700o (2尺8寸×5尺6寸)
| 公団住宅、アパート、マンションなどの標準仕様 | 六一間(ろくいちま) | 925o×1850o (3尺5寸×6尺1寸)
| 近畿、中国地方の一部 |
注) 中間(なかま)とは、中部、東北、北陸の一部、沖縄などで使用されてきた畳の基準尺のことで、京間と田舎間((江戸間のこと)の寸法の中間にある。長さ6尺×幅3尺のものをいいます。「相の間(あいのま)」「中京間(ちゅうきょうま)」とも呼ばれることもあります。
畳は柱(105o角)と柱(105o角)の内側に上の図のように納まります。これが基本図となります。なぜ畳を横に2枚並べた状態での数字に決定されたのでしょうか?それは、6帖が和室の基本の敷き方だからです。6帖において、一カ所だけが畳が長手方向に2枚並びます。畳の敷き始めがこの敷き方からになります。
1820oは柱の割り寸法です。上の図でいえば1820o+1820o=3640oということになります。そこから左右の柱の半分ずつ、合計105oを引きますと3535oとなります。つまり内法寸法(うちのりすんぽう)です。畳一枚はその半分の1767.5oとなりますが、機械の寸法のようには畳は作れませんし、敷き詰めることも出来ません。
また、使用しているうちに畳が押されて膨れてきたりもします。どうしてもある程度の隙間が畳同士には必要です。この寸法で敷こうとしてもギリギリで入るくらいです。したがって1760oが畳一枚の長手方向となります。短い方の寸法はその半分の880oということになります。これが上記の表の中の「全国的な標準規格」と書いている部分に相当します。 なお、1820oは一間(いっけん)です。
おさらいします。(単位o) 1820+1820=3640 3640-105(柱)=3535 3535/2=1767.5 約1760(畳一枚の長さ) 畳の短い方の長さ1760/2=880 ということになります。畳の短い方は長い方の1/2であることが殆どです。
一間(いっけん)は1820oとするのが、現在では有力ではありますが、一つのモジュールとするには少し中途半端な数字です。それは、尺貫法(しゃっかんほう)をメートル法に換算したものですから仕方ないことではあります。そこで1820o→1800oにすることもよく行われています。寸法を取る時や計算に間違うことが少なく実用的だからです。これ以下の柱割の寸法ですと、建築基準法に廊下や階段の幅が適合しなくなります。
さて、「桂離宮」のように「最初に畳ありき」で、日本の建物の柱割は決定されてきました。しかし、後に柱割り(はしらわり)があって畳の寸法が決定されるようになりました。そうでないと大工さんもややこしくて仕方がなかったからであろうと思います。何しろ畳を中心に考えて行くと部屋が広くなるほど、辻褄の合わない寸法になったりしするからです。それに基本の同じ間隔に柱を並べる柱割りだと、使う木材の寸法も取りやすく、間違いな少なくなって工事の作業能率も上がります。
■ 一間(いっけん)の長さにいろいろな基準がある理由 |
これは一間(いっけん)がいくらかによって時代とともに変化があったからです。最初は、織田信長が検地をおこなっており、豊臣秀吉が「太閤検地(たいこうけんち)」を史上初めて全国で行いましたが、信長の検地が秀吉に受け継がれたものです。このことで納税米を正確に把握できるようになりました。その時の田畑の測量による長さの基準が丁でした。それを間に換算しますと
60丁 =一間 =6尺3寸 =1910o
と決定されました。従って、上の表の一番上の京間はここから始まりました。
ところが、江戸時代に再度検地が行われ、一間=6尺=1820oと決定されたのです。
同じ広さなのに単位面積が小さくして同じ年貢を課すのですから、実質的に徳川幕府は増税を行ったわけです。
1820oは上の表でいえば、二段目の中京間になります。 江戸間はこの中京間の一間=1820oを畳の寸法ではなく、柱割(柱のモジュール)として決定したものです。ですから、中京間よりさらに柱の分だけ狭くなっています。 | | | 豊臣秀吉は1582(天正10)年から1598(慶長3)年にかけて各地を平定、あるいは大名を転封するたびに、その他必要に応じて検地を行いました。 その後も、徳川幕府等によって検地は続けられました。
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一般的に、長畳(ながだたみ)とは、丸畳(まるだたみ)より長い一間(いっけん)以上の畳を指し、幅が一間以上の床の間などに使われます。丸畳とは一般的にいう京畳のことで、一畳の広さを持つ畳のことです。また、長畳とは通常の畳より長いものを総称していう場合もあります。
東京国立博物館に所蔵されている畳に奈良時代(8世紀)の長畳(ながだたみ)があります。この下の画像を見ますと、現在の畳と殆ど変わりがありません。畳を織る時に使う経糸(たていと)が現在の畳には複数本使われているのと比べて一本だでであることが違いであるにすぎません。使用されている畳表(たたみおもて)は藺草(いぐさ)で、中央部は見た目に現在のものに劣りません。
両サイドはやや目が細かくなっています。縁(へり)の布が見当たりません。当初からなかったのでしょう。そのため、両端は目を詰めて丈夫にしたものと思われます。長さは、同時代でもさまざまにあるようですが少ないもので2.2〜2.4m、幅は10.4〜1.08m程度で、現在の畳に比べて長い。このことから「長畳」と呼ばれたものと推察されます。
画像とその下の文の出典:京都府 画像出典:長畳 東京国立博物館
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